2009年12月29日火曜日

ファインマンに学ぶ科学的良心

年末は,ファインマンに学ぶ科学的良心.

リチャード P. ファインマンの自伝「ご冗談でしょう、ファインマンさん」の「カーゴ・カルト・サイエンス」.これは彼のカリフォルニア工科大学1974年卒業式式辞を文書化したものですが,非常に素晴らしいことが書かれています.ということで一部抜粋.


 今あげたこういう教育上の、または心理学上の研究は、実は私が「カーゴ・カルト・サイエンス(積み荷信仰式科学)」と呼びたいと思っているえせ科学の例なのです。南洋の島の住民の中には積み荷信仰ともいえるものがある。戦争中軍用機が、たくさんのすばらしい物資を運んできては次々に着陸するのを見てきたこの連中は、今でもまだこれが続いてほしいものだと考えて、妙なことをやっているのです。つまり滑走路らしきものを造り、ヘッドホンみたいな恰好のものを頭につけた男(フライトコントローラーのつもり)をその中に座らせたりして、一心に飛行機が来るのを待っている。形の上では何もかもがちゃんと整い、いかにも昔通りの姿が再現されたかのように見えます。
 ところが全然その効果はなく、期待する飛行機はいつまで待ってもやってきません。このようなことを私は「カーゴ・カルト・サイエンス」と呼ぶのです。つまりこのえせ科学は研究の一応の法則と形式に完全に従ってはいるが、南洋の孤島に肝心の飛行機がやってこないように、何か一番大切な本質がぽかっとぬけているのです。



 諸君に第一に気をつけてほしいのは、決して自分で自分を欺かぬということです。己れというものは一番だましやすいものですから、くれぐれも気をつけていただきたい。自分さえだまされなければ、他の科学者たちをだまさずにいることは割にやさしいことす。その後はただ普通に正直にしていればいいのです。
 もう一つ、これは科学にとってはさほど重大なことではないが、私が信じていることを申し上げたい。それは諸君が科学者として話をしているとき、たとえ相手が素人であっても決してでたらめを言ってはならないということです。(中略)私が言わんとしていることは、嘘を言う言わないではなく、科学者として行動しているときは、あくまでも誠実に、何ものもいとわず誠意を尽して、諸君の説に誤りがあるかもしれないことを示すべきだということです。これこそ科学者同士の間ではもちろんのこと、普通の人たちに対するわれわれ科学者の責任であると私は考えます。



 あるとき私はラジオに出演する友人と話をしていて、少なからずびっくりしたことがあります。彼は宇宙論と天文学をやっている男でしたが、この研究がどのようにして実際に応用できるかを、いかに説明すればいいかというので、頭を悩ませていました。私がつい「そうさなあ。応用できることなんか何もないんじゃないか」と言いますと、彼は「うん、実はその通りなんだ。しかしそんなことではこの種の研究に研究費が出してもらえなくなるからな」と言いました。私はこれを一種の不正直さだと考えるのです。もし科学者として立つなら、素人に自分の研究していることをよく説明し、それでも支持してくれないのなら、それは向こうの決めることなのだからしかたがないのではないか。


最近(というかちょっと前)話題になっている「事業仕分け」.それで上の話を思い出しました.
内なる世界にいれば,どうしても盲目的になりがちな気がしますが,そういう人も他の人に対し自分が何をやっているか懇切丁寧に説明しなければならないのではないかと感じました.

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